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因幡八上羽子板

2,200円

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因幡八上羽子板 羽根付き(ひとつ) 素材:羽子板/モチノキ・彩色絵の具(膠・胡粉・絵具)    羽根/無患子(ムクロジ)・因州和紙 羽子板サイズ:w.25.5cm x d.10cm x 1cm 重量:100g *濡れた手で触ったり水拭きしたりすると彩色が滲みますのでご注意ください。 *製品の性質上、直射日光や高温多湿は避けてください。 因幡八上羽子板(献上羽子板・宮原羽子板ともいう)  人皇五十五代 文徳天皇の御宇(西暦827年 - 858年)、因幡の国 金屋千賊谷(鳥取県鳥取市用瀬町宮原近くにある千賊山)に多数の強賊がいた。その頃、日の出の富者、鳥越長者の愛娘 八上姫に賊の頭目が想いを寄せ、百計をめぐらして遂にこれと通じたが、姫は乳母の奇知によりて、これを察知せられしを恥じいて、自ら生命を絶たれた。ために頭目は自暴となり、いよいよ毒牙を逞うした。  その頃、帝より討滅のことを仰せつかって、この地に下向したのが中納言行平朝臣であった。  即ち千賊山征討並に因幡守に任じられた。帝も行平朝臣の大任に心を脳ましたまひ、薬師如来の尊像を守護仏として下賜あらわせられた。 しかし、強賊はなかなか屈しない。果せる哉勅使都より下向あり、行平朝臣の従五位と討伐使の位を剥奪して仕舞った。  行平大いに決心して、宮原地の犬山神社の下に居を改めて神護を仰ぎ、天地神明に祈誓をこめ、自ら刀をとりて千体の薬師如来の像を刻み、これを社の下の川に流して大いに祈った。  行平勇気百倍して遂に強賊を平定した。千体の仏を刻んだ余材で羽子板を作り、子供に与えられたのが、宮原羽子板の起因創源である。このうちから十二本を御所に又国主に献上せられた。  用材は、純白を好んで『ノブの木(ノグルミ)』を用いられた。後年『イモギ(ヒメシャラ)』を用いた時代もあった由。 板祐生氏の「山陰の伝説玩具概見」(『旅と伝説』第92巻収録)の文章を柳屋初代 田中達之助氏が参考にされたと思われます。 【現代語】  平安時代中期の文徳天皇の時代(827年 - 858年)に因幡の国の千賊谷(現在の鳥取県鳥取市用瀬町宮原近くの千賊山)に多くの盗賊がいたことから始まります。富豪である鳥越長者の娘、八上姫は盗賊の頭目から恋慕われ、さまざまな策略で関係を持つことになりました。乳母に知られてしまい、恥じて命を絶ってしまいました。激怒した頭目は、さらに凶暴になって暴れ回りました。  そこで、朝廷から討伐を命じられたのが、中納言行平朝臣でした。朝廷は行平朝臣に薬師如来の像を授け、守ってもらいました。しかし、盗賊たちはなかなか降伏しませんでした。 朝廷からは、行平朝臣の位を剥奪する使者がやってきました。行平朝臣は決心し、犬山神社の下で神に祈りを捧げながら、千体の薬師如来像を彫りました。像を川に流して祈ったところ、勇気が湧き、ついに盗賊たちを平定することができました。  行平朝臣は、像を彫った余った木材で羽子板を作って子どもたちに配りました。これが、宮原羽子板の始まりです。このうち12枚は朝廷と国主に献上されました。 宮原羽子板は、純白のノブの木で作られていました。後に、イモギという木が使われた時期もあったそうです。  柳屋初代 田中逹之助氏は同じ復興するならば昔のままにと思い『ノブの木』を伐り出して貰い製作されたそうです。YANAGIYA REPRODUCTの八上羽子板(宮原羽子板)は『ノブの木(ノグルミ)』に似た純白のモチノキを材料として復刻製作に用いています。 「柳屋」は鳥取県鳥取市にて1928年から2014年までの 86年間にわたり郷土玩具を作り続けた工房です。屋号は「柳に雪折れなし」という、ことわざに由来します。  初代 田中達之助は因幡地方の歴史や伝説を元に創作玩具を発表する一方、廃絶していた玩具の復元にも尽力し、妻 利子とともに研究と制作を重ねました。屋号を体現するような仕事は娘夫妻へと受け継がれ、張り子面や土鈴、木製人形など、50種類以上にも及ぶ多種多様な玩具が生み出されました。  2020年に始動した『YANAGIYA REPRODUCT』では新たな作り手たちが二代目 田中謹二・宮子夫妻にその手法を学び、柳屋の玩具制作に取り組んでいます。 詳細はこちら https://note.com/cocorostore/n/n460cdc2c0afb

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